では一体‥障害にかかっていないエネルギー状態にある身体とはどのようなものなのだろうか?
彼らは常に身体の霊的な器官であるチャクラに注目している。霊界においてもそれは変わらない。尾てい骨から頭頂に掛けて7つほどあるチャクラの活性具合と経絡の流れがスムーズであるかどうかを見ていると考えて良いだろう。それ以上は想像がつかない。
細かく言えば、難しいカタカナの霊的なボディがそれぞれの次元に対応して存在しており、それらの関係が‥となるのだろうが、そんなことは今の私にはわからん。私が理解しているのは人間が何をしようとも各々のボディの状態はそのまま現実に対するエネルギーの転写となって現れるぐらいの事である。二次元的な絵を描かせればそれは一目瞭然であり、頭でどんなにアイデアを練ってから描いてみたところで、ボディの状態に影響を受けるのだ。まぁだからと言って、美人なら絵がうまいかといえばそのようなことにはなっていない。ようは心技体にある。天地人という表現もある。
そこで仮にもし、7つのチャクラが開放されることをもってエネルギー障害にない状態であるとすれば‥それはそれで唖然としてしまう要素を予想することになる。宇宙全史情報からは、今現在(2008.夏時点)の日本で7つのチャクラの覚醒と開放に至っている人物は2名しかいないと述べている。
我々から見て、マリックやセロにレオンというマジック界の大物たちが見せる魔法使いのような技の数々を本物の魔法として扱ったとしても、それはそれで、彼らでさえ軽度エネルギー障害の枠に位置してしまうという途方もない奥行きを示すのだ。
ではなぜ、7つのチャクラを完全開放させずともそのようなサイキックな能力に目覚めている人物があちこちに見られるのだろうか?‥サイキックにこだわらなければ人間には様々な能力が秘められている。見るだけで覚えてしまうような記憶力であったり、見るだけでそこに答えの数値が見えているような暗算力であったり、何カ国語もの言語を習得してしまう言語力であったりっと数え上げたら切りがない。
そのような人並みなずれたレベルともなると、能力を引き上げるための日常生活上での好奇心の継続は欠かせないだろうが、もはや努力するとかしないとかの次元ではない。生まれながらにして身についている何かがあると考えた方が正しいのだ。
まぁもちろん、人間が努力する上でそのような特異能力を前提として職を身につけるわけではない。しかし、自らの能力に何も気がつくところがなければそれはそれで人生に対するテンションは上がらないのである。
我々人類がこの先も消費型の文明を維持させつつ、自らの向上を目指すというのならば、努力に関しての選択肢は二つある。
一つは、ピラミッド型のそれを維持させつつ、無慈悲にも、能力差は当たり前の自らの専売特許として個の生活のために努力の競争を強いるだけのマンネリに進めることだ。ただし、それをするにも経済システムによる現状のピラミッド構造のままでは共倒れは必然に起こるため、常に戦乱の後のような屍を築く不況を覚悟しなければならない。たぶんこれは10年から20年程度のサイクルで起こり続けるだろう。それがグローバル化がもたらした競争崩壊ゆえの実体にある。そして一度でも底辺に落ちれば、這い上がるのは今以上に難しい。
もう一つは、教育方針を徹底的に個人に内在する能力開発に注目し、お互いが競争ではなく刺激しあって、その結果として繁栄して行くことだ。そのためにもそれに準じた教育費の無料化に向けた経済システムの改善は必然であり、その能力を引き出すのに見合った滋養の提供も検討されるべき課題である。つまり、生存権通貨に基づく陰陽通貨型経済はそれを実行するのに適当な内容にある。そう、私がなぜ生存権通貨にこだわるかと言えばすべては学ぶためにある。
学ぶための条件が整えられない文明など、それこそ進化を継続させる価値などありゃせん。
努力とはなんだろうか?
古来より官職に就くには難しい試験があり、それが学ぶ事への関心事だった。それでもその学問のお手本として用いられてきた言葉はすべて賢人たちの知恵であった。今でこそ、難しい計算の仕方であったり、詰め込むばかりの歴史や地理の常識であったりするが、覚えることは科学が進めばすすむほど細分化を繰り返し、情報量は今と昔とではまったく異なる。それこそ昔は賢人の言葉から学ぶことが大きかったがゆえに、学ぶことはそのまま人間学に通じていた。
ところが現代の学びにはそれが無い。
無いがゆえに様々な弊害を生じさせている。そしてそのように努力を無味乾燥なものに仕立て上げてきた要素こそ市場競争に対応できる人材育成という看板だった。それはそのまま就職するための大学受験に通じた。過当競争のそれはまず、忙しい親から人間学を学ぶための機会を奪い、学校でもそれを無駄な時間と決めつけて学ぶ機会を与えなくなった。生徒の側にも変化は当然ある。しんどい内容にしか映らない昔の賢人たちの言葉よりも、はやりの最先端技術の紹介の方が学ぶ上での好奇心ははるかにそそる。
さて、努力とはなんだろうか?
世のため、人のため、家族を養うため、己の向上心から‥で、その結果世の中は良くなったのか?どうなのか?‥結果が伴わないというのが社会的な現状にあるのならば、方向性を変えなければならないのが今の時代である。
今の政治議論を見ていると、むなしくもそこに気がつかれていないように見受けられる。
それでも皆さん本能的に自分たちの上に立つ人は優しい人というのが理解されているようにある。そりゃそうだろうね。坂本龍馬があの世から出てきて「おまんら努力せなぁ切り捨てぜよ!」‥なんって口にしようもんなら、たぶんみんなでシカトだろうね。
そうなのだ。代名詞を置き換えて考えれば答えは明白にある。
でもなぜか顔が違うだけで混乱する。大衆意識とは実にまどろっこしい。
右手に恐怖を、左手に優しさを‥まさにそんな感じなのだ。両手で慈悲を示さなければ我々の努力などそれこそ泡となって弾けるだけだ。何が弾けたかって、そりゃお金じゃないよ、自分たちが築き上げてきた努力でしょ。そこにはいろんな想いがある。
だからこそ皆言いたいことを言い始める。でもまとまらない‥それはやっぱり普段から慈悲に生きていない分だけ足を引っ張り合う傾向にある。それが片手に恐怖を握っている状態なのだ。
自分の手に何が握られているのかすらわからない状態をエネルギー障害にあると言われても素直にうなずくしかない‥むなしい限りだ。
では身体障害に見られる重度なエネルギー障害はなぜ多発しているのか?
人口増加とともに比率も比例するから人数も増える‥果たしてそうだろうか?
慈悲の足りない科学力しかないから増える‥こんな表現は眉唾物だろう。それでもたしかに不足している一面はある、それは事実だ。それだけふんぞり返っている輩も多い。そんな社会構造で良いはずがない。だからこそ、お鉢が回ってくることになる。困っている人を助けたかったら、それこそその可能性を示せる者が呼ばれるのだ。その状態からの希望を示してあげられなければどうにもなるまい。それは同じ身になって始めて明かされる涙の結晶のような感動秘話な展開にしかあれない。けっして五体満足な者がやかましく言う努力などとは比較の成り立たない世界なのだ。
そして、病で苦しむものが多くなればなるほど、競争するしか方向性を見いだせない社会は根底から変わるしかない。救うための医療技術を獲得しても、届けることができない経済上の理由などそれこそ「ふざけるな!」であろう。届けられない理由こそ国家方針で改善すべきである。そこに医者が足りないというのならば、一億総医師免許習得済みぐらいの方向に教育の在り方を切り替えるべきである。極論ではあってもそのぐらいの幅が保てたところでなんら困ることにはならない。医者が青くなるほどに病人の数が少ないのならばそれはそれで本望にある。それこそが努力の果実なのだから‥。
必要とされたものが必要でなくなる瞬間‥それが努力のなれの果てに獲得され、世の中に浸透してしまった結果の果実である。人はそれを水準にあると表現する。
だからこそ、おいて行かれたくなかったら、進化を目指すしかない。
でもどうだろうか‥受け身でのんびり底辺を徘徊してみるのも悪くない。そのうち突然変異もあるだろう。それが内在し続ける可能性であり、嫌が上でも生きている内に蓄積されてしまったオリジナルな何かである。生きていることの本質に集中していればそれで十分だ。
あとはそれこそ、目立ちたいか、大手を振りたいかの個人差でしかない。それでも皆が一様に大手を振りたがるのが日本人である。それゆえ水準の高さも尋常ではない。その民族性の違いをまともに理解して努力を口にする者はほとんどいない。そしてそこに理解があって行動力のある人はそれこそ外で活躍している。また反対にだからこそ日本に学びに来るのだ。
そういうことに気がついていない者ほど、努力努力とうるさいことばかりを口にして、人間学を語ることがない。もしそこに学びがあるのなら、人に努力を薦めることなどしないだろう。そんなことを薦めればそれこそ姑息なライバルだけが増加して行くだけだ。そのかわりこう言うのである。「君の望むことをするべきだ」‥とね。するとお互いが有意義で価値のあることしかしなくなるから、自分の良い刺激になるのである。すると進化のスパイラル・ダンスに繋がる。
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